想像力2010/05/30

― どこへ行ってたの?えっ?バラの鑑賞?あなたのイメージに合わない。あんた花より団子でしょ。

などと妻に言われ、俺のイメージってそうなん?と言い返したくなるのをぐっとこらえ、イメージってそもそも何?と反省してみる。

ここで言うイメージは、ある種の先入観、この場合、歪んだ先入観にもとづく誤まった心象を意味していると思われる。 小沢幹事長-剛腕、鳩山総理-優柔不断、などというのもその部類かもしれない。 正しい事実のみで人を非難したり、揶揄したりするのはほんとうは難しい、真実を敢えて無視し、ある一面的な特徴を拡大強調することによって、攻撃(ある種のコミュニケーション)が可能になる、ともいえる。コミュニケーションのためのつっこみどころを人は常に探しているからだ。その罪をあまり生真面目に咎められると、非常にしゃべりにくいし、行動不能におちいったりするのではなかろうか。喧嘩はある程度健全な精神のあかしでもある。 すべての意見は偏見であり、誤謬しかないという見地に立てば、人は自分にもっとも都合のいい嘘を選んでいるにすぎないともいえるかもしれない。







自分で撮ったバラの写真を後で見返して、いつも思うことは、「ほんとにこんな色だったかな?」という違和感である。ダークレッドのバラの色は写真では忠実な発色(つまり肉眼で感じている色)が難しいもののようだ。どこかどう違うのか言葉で表現するのは難しいが。色だけではなく、花弁の質感、たとえばビロードのような肌目などというのは、知覚しているときに見ているものと、イメージのなかのもので違いがあるような気がする。ここでバラのイメージというのは、個別の記憶像というのではなく、過去のバラを見てきた経験のなかでいつのまにか頭のなかにできあがっている何かである。


ところで、イメージという語について、もうちょっと定義っぽい記述を探してみよう。

サルトルは、『想像力』という彼の最初期の著作の最後のパラグラフで

「像(イマージュ)とは意識のある型なのだ。像(イマージュ)とは作用であって、事物ではない。像(イマージュ)とは何ものかの意識である。」

と述べ、さらに『想像力の問題』という論文では、像(イマージュ)を

1.ひとつの意識であり、
2.表象的ともいうべき諸要素に、ある具体的で像化されていない識知を結びつける綜合的な作用であり、
3.その対象物を空無として措定し、
4.像(イメージ)としての対象物を生み出しかつ保っておく自発性


と特徴づけている。

反省してみれば、確かに想像とは「現実に知覚しておらず、今ここに現実に存在しないものを現前化させること」であろう。ただ当たり前すぎて、あまりおもしろくない。

ルイ・フェルディナン・セリーヌの『夜の果ての旅』のなかで、生身のまわりに銃弾がとびかう戦場で、能天気に指揮をとり続ける大佐の狂気に、主人公は恐怖にふるえあがって、つぶやく。

「この大佐は、すると、人間じゃないんだ!もうまちがいない、犬より始末が悪いことに、奴には自分の死が想像できんのだ!」(生田耕作訳)

Le colonel, c’était donc un monstre! À présent, j’en étais assuré,
pire qu’un chien, il n’imaginait pas son trépas!

そう、「想像」という語はこのように使うものだろう。この「想像」は経験的なイメージの喚起力という意味ではない(死んだ経験というのは誰にもありえないのだから)。むしろ、現実のさまざまな状況を判断して、これから起ることを予想する能力であろう。危ないものを危ないと感じることのできる能力、疑わしいものをうさんくさいと察知する能力、つじつまのあわないものをおかしいと判断する能力、つまり生きていくうえで不可欠な能力である。したがって、想像力の鍛錬に努めよう。想像力の欠如は、生命維持のためのセンサーを解除してしまうことだから。