開高健拾い読み2010/04/10

 開高健の、新聞・雑誌等に発表された短い文章―コラムといえばいいのかエッセーといえばいいのか―を集めた本を、対話するように拾い読みしていると、ある種の精神安定剤のような効能があるらしく、中毒というほどではないにしろ、しばらくの間やめられなくなる日が続く。


 いま読んでいるのは、『ALL MY TOMORROWSⅣ』と題された角川文庫で、1970~1981年の文章が収められている。


 釣りの趣味があるわけでもなく、グルメでもないのだが、豪快な男の遊びの世界にやはり引きづりこまれてしまう。開高健の文章は、出たとこ勝負のあけっぴろげさとおおらかさがあり、さりげないが知的好奇心をゆさぶる含蓄があり、かといって他人への個人攻撃や知的虚栄心の傲慢さに陥ることがない。少年期から青年期にかけて戦争と戦後の混乱を生き抜いてきた昭和1ケタ世代の骨太さをもちながら、大阪人らしい生活感と人なつっこい陽気さを失わない。


― 大地震やらオイル・ショックやらで、再び飢えの時代がやって来ても、私には生き抜く自信がある。キザな言い方だが、その時こそわがルネサンス、我々の時代、という気がするのである。ナアナアばかりで真摯な議論もなく、精神を忘れた現代を見るにつけ、“戦後”はひたすら懐かしい。
  (1975.08.07『路上に赤裸の人生があった時代』)


 と言ってのけるのだから、相当な根性である。


 むろん、開高健には、釣りや酒の話ばかりではない、真剣勝負の戦場がある。それを文学と呼ぶべきか思想と呼ぶべきかは知らない。「観念を形にする」というのが彼の好みらしい。死を賭してルポし続けたヴェトナム戦が1975年に終結し、そのいわば総括としての長編小説の執筆にのめりこみつつ、そこから外に逃がれるように釣りの旅に向かう往復運動が開始される時期に、これらの文章は書かれている。


― “観念”はいくつもないし、形をなしているが、“人”は多様であり、無限界であり、無定形なのだった。それらの人びとの眼を見なければ私もお茶の間過激派でいられただろうけれど、眼を見たばかりにひきこまれ、その人びとのいくらかずつがまさぐりようもなくしのびこんでしまい、“断”がついに下せなくて、たじたじとなってしまうのだった。この国ではアチラ側でなければコチラ側、殺スのでなければ殺サレルのだと覚悟をきめなければならない様相を、ジャングル、市場前の広場、なんでもない町角、病院、水田のほとり、あらゆる場所で見せつけられたが、誰かの側にたつとなれば同時に朦朧とながらも誰かを殺す決意をしなければならないのに、私には誰も殺す決意もつかないのだった。
  (1975.05.16 『さらば、ヴェトナム』)


 長編『輝ける闇』(1968)や短編集『歩く影たち』(1979)においてすでにおなじみとなっていることばのさまざまな谺が響きあっている。このようないわば内面をさぐり続けるような作業というのはなかなかしんどいにちがいない。内面に沈潜するというのは文学者の執筆に多用される表現だが、「外に逃げる」という表現は奇妙な感じを与えるかもしれないが、彼の場合、ぴったりする。これはストレス発散とか気分転換とかいうレベルをはるかに超える、スケールの大きい対症療法なのだと思う。


― 煙霞の癖。漂白の思ひやまず。ついフラフラ、といったところであろうか。砂糖菓子のように言えば、風が誘うんです。甘い泣きごとである。されど開高よ、泣きたくなるぜ、この人生。そんな危険な夜の訪れには、磨いた酒と手垢のついた地図に自身を慰めて、我が田に水を引く半句をひねり出す。旅は男の船であり、港である。そして。男は自殺するかわりに旅に出る。では。
  (1980.02『煙霞の癖』)


 南北米大陸縦断という壮大な釣行脚の最中、ニューヨークに立ち寄った際、彼は死体安置所を見学して、次のような文章を残している。


― この部屋(ニューヨークのシティ・モーグ)を出て廊下を歩いているとき、しばらくぶりでまざまざと私は亜熱帯アジアのはげしい日光のなかへつれもどされた。・・・サイゴンと聞くたびに私はいくつかの光景とひとつの覚悟につれもどされる・・・これまでに何度となく動員をかけて使い古してしまったけれど、いつまでたっても刃こぼれすることのないあの覚悟・・・・・・
  (『もっと遠く!』より)


 文学―この語が真に適切なのかどうかは疑いがあるが、他に適切な語が見つからない―がこのような壮大なドラマとなって結実してゆくのを、日本で久しく見ていない。

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