キーワード2010/05/23

インターネットの功罪はいろいろあるだろうが、ネットで通販ショッピングは今や買い物のスタイルとして定着してしまった。店舗なしででネット販売で商売することが可能になったことはやはり大きい。

古書店巡りから遠ざかってしまった者にとって、ネットで全国の古書を検索し、価格等の条件で書店を選び、注文し宅配で家に届けてくれる、これはもう革命的である。足で歩きまわり、重たい本を担いで持ち帰る、などという苦労など、もはや昔の悪夢のようである。むろんすべての古書店がネット参加しているわけではないにしても、ネットで発見できない本は、一般的に流通しているとはいえないかもしれない。それはもはや図書館で閲覧でもする他ないのではないか。最近は図書館も書籍在庫のネット検索もできるようになっていて、利便性は増している。まだ一般書店で販売されている本なら、近くのコンビニで受け取るシステムもある。

また、これはいやというほど経験していることなのだけれども、昔はこつこつ書物を調べて何年もかかって薀蓄を積み上げるこによって、到達した知の領域も、ネットの検索をうまく利用することによって、ほんの数分で知を手に入れるることも可能になってしまった(むろん専門の教育機関においてしか獲得不可能な知の領域は厳然としてあり、分野によってはという限定付ではあるが)。

このようにネットが便利なことこのうえないのはわかるが、いくつか問題点もあることがわかっている。

ひとつは、出会い頭の発見というものが失われてしまう可能性である。自分の頭のなかにあるキーワードには偏りと限界があるので、発想がある範囲内に閉じられてしまう怖れがあるのだ。したがって、書店に行き、書棚を眺めているうちに何かを思い出すこともあるし、新たなものを発見することもあるので、やはり意味があるのではなかろうか。

インターネットのgoogle検索、YouTubeの動画検索などでも、自分のもっている知識に限界を感じることがある。ネットサーフィンをしていて、なかなか突破できない結界のようなものの存在、同じところをぐるぐる回っているような焦燥を感じることがある。なんというか自分の感性の限界なのであろう。

しかしもしかしたら、そのうち、あなたの感性のキーワードの拡張を支援するシステムが開発されるかもしれない・・・・・なんて想像して、ちょっとぞっとする。実は、外に出かける口実、自分の鬱陶しさからのほんのちょっぴり解放されるのを、欲しているだけなのかもしれない。余計なことしてくれるな、自分で見つけることが楽しみなのだから、それをとりあげないでくれと・・・・

そういえば、これはそんな気分を歌ったのではなかったかと、見てみた一曲。