良寛の和歌2010/02/07

 煮詰まったように思考が方向感を失なった時、理くつによっては通り抜けられない袋小路に感性がはまりこんだ時、心は詩歌に向かう。

 ひさしぶりに良寛を読む。五合庵時代の和歌を、ひっかかる句を抜き出しながら、読んでみる。

 良寛は禅宗の僧侶であったが、いわゆる住職となって寺を管理するような職にはつかず、托鉢で外出するとき以外は、山中の庵で隠者のように暮らしていたようだ。なぜそのようなことになったのか仔細はわからないが、孤独と自然観照のなかに身を置いていた。もともと煩わしい人づきあいは苦手だったのだろう。


― 世の中は 術なきものと 今ぞ知る そむけば疎し 乖(そむ)かねば憂し


とはいっても、次のような句を詠んでるところをみると、


― 空蝉の 人の憂ひを 聞(けばうし われもさ)ながら 岩木ならねば

― 世の人に まじはる事の 憂しとみて ひとり暮らせば 寂しかりけり

― 僧はただ 万事はいらず 常不軽菩薩の行ぞ 殊勝なりける


 孤独の中に悟りを開き、世間から超絶するということでもないようだ。

 しかしこの人、ずいぶんと雑念が多い。というより雑念を歌にしているというべきか。
心に入ってくるものを歌にすることに執着することによって、何かに耐えているようでもある。


― うば玉の 夜の闇路に 迷ひけり あなたの山に 入る月を見て

― 世の中に かかはらぬ身と 思ひども 暮るはおしき 物にぞありける

― 逢事は 亦いつの日も しら雪を 降り流れ行、人ぞ愛なき

― 出づる息 また入る息は 世の中の 尽(き)せぬことの ためしとを知れ

― 浮雲の 待事も無き 身にしあれば 風の心に 任すべらなり


 歌から感じられるにすぎぬとはいえ、この時代(近世末期)、この風土(越後地方)において、心を記録するという情熱が突出していることの不思議さを思う。


 * 和歌テキストは春秋社『良寛全歌集』(谷川敏朗校注)に由る。