タルコフスキーの映画論2010/03/13

 映画を観るときは、できるだけ先入観なしに観たい。監督が誰かなんて知らずに観る方が正しく評価できるのではないかとすら思う。だから映画を観る前に、その映画の監督が自分の映画について述べたことを読んだりするのは、ある意味最大の先入観をうえつけてしまうにちがいないので、決して好ましくないだろう。しかし、もう観てしまった映画についてなら、監督自身が何を発言していたかは気になるところでもあり、読んでみるのもいいかもしれない。

 読んだのは、タルコフスキーの映画論を集めた『映像のポエジア―刻印された時間』(鴻英良訳・キネマ旬報社・1988)。「やはりそうなのか」という予想通りの面と、「えっそうだったのか」という意外な面と、両方の発見があった。

 予想通りな面は、彼の詩人としての自覚である。
 彼の父親アルセーニー・タルコフスキーは、日本ではあまり知られていないが、ロシアではある程度著名な詩人だったらしい。調べてみると邦訳もある。そういえば、彼の映画には父親の詩が何度か登場していた。『鏡』(自伝的内容の映画なので、当然といえば当然であって、詩の朗読を父親自身が担当している。)、『ストーカー』でもゾーンの部屋で、父親の詩が主人公によって朗読される場面がある。彼の映画論には、彼が詩を重要視していることの記述がたくさん含まれている。


― 映画で私をなによりも魅了するのは、詩的連関、詩の論理である。詩の論理こそ、芸術のなかで、もっとも正当で詩的なものである映画の可能性にこたえるものだと、私は思う。

― 結合の詩的フォルムにより映画の情緒性は高まり、それゆえ観客を生き生きさせることができる。観客は、主題が準備する結論や、作家の頑固な指図にかかわることなく、人生の認識にともに参与することになる。描写された複雑な現象の、より深い意義を見つけだす助けになるものだけを、彼は手にすることになるのである。世界の詩的ヴィジョンと思想の複雑さを単純明快な枠組にむりやり押し込む必要はない。

― 詩についていうならば、私はそれをジャンルとは考えていない。詩、それは世界感覚である。現実にたいする関係の、特別な方法なのだ。

― 私も自分のことをつねに、映画人であるよりも、むしろ詩人であると考えてきた。


しかし、この方法というか態度は、観客の当惑を招きかねない。この観客の当惑に彼自身が当惑している。


― 最近、私は幾度も観客のまえで発言する機会があった。そして私の映画のなかには象徴もメタファーもないと私が主張すると、観客は決まって不信感を表明するということに私は気づいた。たとえば私の映画のなかで雨がなにを意味するのかということを、私は幾度も幾度も執拗に聞かれた。なぜ雨がどの映画にもでてくるのか、なぜ風や水や火のイメージが繰り返されるのか、というぐあいに。私はこうした質問に会うと、当惑するのである。
 いわば雨は私が育ったあの自然の特徴なのだ。ロシアでは、長い長い愁いに満ちた雨がしばしば降る。言ってみれば私は自然を愛しているのだ。私は大都会が好きではない。現代文明の新しさから遠く離れたとき、私は最高の気分に浸れるのである。モスクワから300キロほど離れたロシアの自分の村の家で、実に快適な感情を味あうことができるのと同じように。雨、火、水、雪、露、地吹雪、これらは私が住んでいるあの物質的な環境の一部であり、言ってみれば、人生の真実である。それゆえ人々がスクリーンに愛着をもって再現された自然を見るとき、彼らが単にその自然に愉悦するのではなく、そこになにか隠された意味のようなものを見出そうとするというのを耳にするのは、私にとって奇妙なのだ。もちろん、雨のなかにただ悪天候だけをみることができる。だが私は、たとえば雨を利用しながら、ある意味で映画の行動がそのなかに浸っている美的な環境を作ろうとしているのである。


 観客の疑問は、雨、火、水にたいする偏愛が理解できないというのではあるまい。なぜそれがある場面で出てくるのかという疑問であろう。なぜその場面で、ストーリーにあまり関係ない自然にたいする愉悦が必要なのか、という疑問であろう。私もこの観客たちと同じ疑問をもっていたのだが、このような疑問にはやはりある種の至らなさがあるようだ。

 このことに関連して、タルコフスキーの最初の長編監督作品『僕の村は戦場だった』についての次のエピソードは興味深い。
 1957年のウラジミール・ボゴモルフの小説『イワン』の映画化であるこの作品は、当初別の監督で始められたのだが、少年の意志によるものとはいえ、敵地への潜入がもたらした彼の死という倫理的な重苦しさが時代的にそぐわないという理由で、制作が頓挫する。その打開策がタルコフスキーによって提案された。彼の打開策とは、イワン少年の見る夢の中に、ふつうの幸福な少年時代を挿入することによって、現実の中の、子供が戦うことをよぎなくされたときに生ずるおそろしい不合理を表現する、というものだった。この案が採用され、彼の監督により制作が一からやり直され、ヴェネチア映画祭で金獅子賞を獲得した。(落合東朗『タルコフスキーとルブリョフ』による)

 いささか単純化しすぎかもしれないが、これがタルコフスキーのいう「詩の論理」の意味なのだろう。もしそれがなければ彼の映画はただ筋を追うだけの普通の映画になってしまう。普通で何が悪い?何も。ただ、映画を見る人の印象度はかなり違うものになることは確かだろう。『僕の村は戦場だった』はボツになっただろう。むろん、この方法論がいつも有効ではないかもしれないし、取り扱うジャンルによっては、主題が散漫なものになってしまう危険はじゅうぶんあるだろうが。


 意外な面は、彼が思想的にドストエフスキーの衣鉢の継承者たらんとしていたことだ。同じロシアの芸術家なのだから、なんの不思議もないといえばそれまでなのだが。ドストエフスキーのような19世紀文学が、革命後のロシアでもはや受け入れられていないのではないかという先入観があるせいもあって、ロシアの民衆と大地の代弁者たらんとしたドストエフスキーの、非常に複雑で激情的な面が、タルコフスキーの映画の一見静謐な表情からすると意外な感じがするのだ。


― 私の撮ったすべての映画において、つねに重要であったのは、根というテーマ、つまり父の家、少年時代、祖国、大地とのつながりというテーマであった。伝統や文化、人々や思想のどこに自分が帰属しているのかを見極めることは、私にとってつねに重要なことだった。
私にとってきわめて重要な意味をもっているのは、ドストエフスキーから出発しながら、現代のロシアでは十分な姿で展開していないロシアの文化的伝統である。それどころか、こうした伝統はふつう軽視されるか、まったく無視されているのである。それにはいくつかの原因がある。まず第一に、この伝統が唯物論と原則的に敵対しているからである。もうひとつの原因は、ドストエフスキーの主人公たちのだれもが体験した、あの精神的危機である。ドストエフスキー自信と彼の後継者たちに霊感を与えたこの危機が、警戒心を呼び起こしているのだ。なぜ現代のロシアにおいて、この<精神的危機>の状態が、これほどまでに恐れられているのだろうか。


 この本の終章には、タルコフスキーの芸術観が語られているが、それはもはや映画論の枠を超えているように思われる。ドストエフスキーの「苦悩の探究」は文学作品として成立しているものであり、映画という表現手段によっては、おそらく超えられるものではないだろう。むろん、映画が文学のプロパガンダではないことは、タルコフスキー自身も承知であろうが。

 しかし、私自身ドストエフスキーをあまり読まなくなっている。ドストエフスキーにかぎったことではないが、西欧の芸術作品にたいする無条件的、単純な受け入れに、ある距離を置くようになったせいもある。個々の問題に具体的な疑念があるというのではないが・・・・・。