もっと遠くへ2012/03/21

吉本隆明氏が亡くなった。

彼の本を読むことは年々少なくなっていったが、それは私が関心を寄せる知の領域がどんどん狭くなってくるのに比例していた。

分厚い『心的現象論本論』を書店で目にした時の、茫洋とした思いを忘れることができない。遠い記憶の彼方にある書名だったせいもあるが、かつて自分にかかわっていたものを思い出せずにいる記憶喪失者が感じる軽いショックのようだった。

『心的現象論』は雑誌『試行』に長期間にわたって連載が細々と途切れることなく続けられていた。私は『試行』の定期購読者ではなく、書店に置かれていたものをときどき覗く程度だった。それでも今自分の書棚に何冊かの『試行』が存在する。いったいどんな理由から入手したのか。

確認してみると、『試行』には様々な論者が様々な論考を寄せているが、吉本自身が執筆しているのは、巻頭に置かれている『情況への発言』、巻末に置かれている『心的現象論』の二つである。学生の頃『心的現象論序説』を読んでいたので、連載中の『心的現象論』を読もうとしたのかもしれない。

吉本隆明氏の著作は数多い。世界を理解するための理論の追求と情況にたいする発言という二面性を持ち続けた作家であった。『心的現象論』は心理学、精神医学、意識、知覚等々、広く心の領域に関する諸問題を取り扱っていて、理論的な著作に分類されるかもしれない。だがどちらかといえば私には、彼は文学の人という印象が強かった。

心の問題を取り扱うのは、宗教、芸術とりわけ文学くらいのもので、科学たらんとする社会科学は人間の精神性という恣意性を排除することによってその理論的価値を得ようとしているように思われる。心の問題は理論的関心からは遠ざかる。ほったらかしというわけではないにしても、アカデミズムとは無縁な気晴らしや趣味の問題として処理される。もちろんアカデミズムなどどうでもいいのだが、このような問題を真面目に考えることが不要になったわけではない。

心の問題を抱えている人間にとって、吉本のような理論的アプローチがどれほどの切実さをもち得るかは何ともいえない気がするが、例えば何が異常で何が普通なのかといった問題を自分で考える人にとって、同意するにせよ同意しないにせよ、彼の考察はいつか来た道となるだろう。

問題を神秘化したり曖昧化して韜晦する道には進まなかったことは、彼の記述の真摯さが示している。幸いなことに、読めば下手な注釈を必要としない著作を彼は残していった。

彼の本を読むたびに、後記などに「もっと遠くへ行きたい」旨のことばが書き連ねられていたのが印象に残った。問題意識を見失うことなく、心の問題を顕わにする知の領域を求めて、はるかな旅を彼は続けていたのだ。