朝倉俊博『流民烈伝』2010/09/26

「普通の人になりなさい」、と私の母はよく言っていた。よれよれのジーンズにチェックのシャツという格好の私を見て、「普通の格好しなさいよ」。ロックやフォークといった当時流行の音楽を聴いていると、「もっと普通の音楽ないの」とかいった具合だ。何気なく聞き流していたが、そのファッションは当時の若者の大多数が採用していたファッションだったし、誰もが聴いていた音楽を私も聴いていたにすぎない。大多数の人々が行っていることを普通と呼ぶなら、私のやっていたことは普通そのものではなかったか。母が希望していた「普通」とはどのようなものを指していたのだろう?もしかすると、あの70年代のすべてのものが、彼女には不可解なものに見えていたかもしれないが。

1977年白川書院から出版された朝倉俊博の『流民烈伝』は、1972年11月24日から1973年12月28日までのほぼ1年間、アサヒグラフに連載された『庶民烈伝』を単行本化したものだ。ここに取り上げられたさまざまなな人物たち―まさに普通のようでいて普通でない、あるいは普通でないようで普通な―の肖像を読み返していると、母のことばが思い出された。確かにここには、普通であるにせよ、普通でないにせよ、リアルな人生だけが醸し出す、不思議さ、可笑しさ、そして沈黙の明るみが伝わってくる。



調べてみると、雑誌に連載された50篇のうち、単行本に収録されたのは40篇、すなわち10篇が未収録となっている。また、雑誌の連載時には、より多くの写真が使われていたのであって、単行本化された際省かれてしまったこともわかる。やむを得ない面もあるにせよ、雑誌で読むのと、単行本を読むのとでは、印象はかなりちがったものになっているだろう。また、この時期の同誌には、世界をまたにかけからだをはったルポの傑作が数多く掲載されている。(同じ号の目次に、まだ若々しい藤原新也の『インド行脚』の記事も見えている。)


― あなたは何ですか?

と問われれば、人は

― 大工です、 とか
― 公務員です、 とか
― 車の販売員です、 と答える。

つまり、各自が従事している職業を答えるわけである。職業に就くことによってはじめて人は社会的存在者の顔をもつのであって、「あなたは何ですか」と問う者は、その人が社会的にいかなる存在であるかを訊ねているのであって、その人が人間としてどのような性向をもっているのかを問うているわけではない。しかしむろん、その答が妥当だとしても、職業がその人の何たるかを何も語らないことも確かだ。その家を誰が建てたのか、その行政上の案件が誰によって処理されたのか、その車を誰が売ったのか、などということは重要性をもたないし、当事者以外の誰によっても記憶されることはない。


このルポで取り上げれている人々の職業を抜き出してみると、

― サーカスの支配人
― 紙芝居屋
― 老女優
― 千島からの引揚者で千島の研究家
― 競輪の予想屋
― 飛脚
― 幇間
― 床屋
― 瞽女
― 杣夫(そまふ、木樵を指す)
― 井戸掘り屋
― 芸人長屋のご隠居
― 東西屋(ちんどん屋)
― 蝮取り
― 藤布織り
― 大工 (観音堂製作者)
― 輪タク屋
― 秘薬製造者
― 手拭折っての人形浄瑠璃
― 海馬ハンター
― 総会屋
― オーケストラ事務局長
― 外連もの旅役者
― 手毬製作者
― 飲み屋経営
― 飴細工職人
― 見世物小屋吹屋込み もとサーカス道化師
― 骨接の医者
― 覗絡繰屋
― 舞踏家
― 歌手
― 少女歌劇団
― 怪獣俳優
― 蝋人形師
― 女プロレスラー
― 労働組合書記長
― 成人映画雑誌編集長
― ABCC病理渉外課員
― オーディオ製作者
― 元ピンク映画俳優 船の清掃労働者


今日では(おそらく雑誌掲載時においてすら)死語に近い職業が相当数混じっている。ある種の職業はそれを選びとった時点から「流れる」ことを運命づけられる。例えば、ある板前さんのことを「あの板さんはあまり流れてないね」と言う(この場合むろん、「流れる」とは、方々で料理の修行を積むことを言う)ように。

しかし、職業を選択することによって、人は自分の運命をも選ぶことになるのだろうか。運命を引き受けつつ抵抗しつづける人々。「からだの中に風が吹いている人々」とはそのような人々ではなかったか。



朝倉俊博氏の肩書きはいろいろあったが、もっとも有名なのは写真家としてのそれであったと思う。写真家としての仕事としては、唐十郎の紅テントルポ、麿赤児の写真集などが有名だった。


― 写真集 『幻野行』 より ―



大駱駝艦の舞踏は豊玉大伽藍で何度か見ている。この舞踏の経験を言葉にするのはとても難しいが、舞台の暗闇に浮かび上がる舞踏の形(鋳態)を見つめていると、人々の表情とか身振りに対する初源的な感覚のようなものが鮮やかに覚醒するのを感じることがたびたびあった。

それから、もうひとつ彼の仕事で忘れてならないのは、微弱超音波によって酒の熟成を促進させるという、画期的な試みである。



『うまい酒はなぜうまい…さらば悪酔い二日酔いの科学』(光文社・カッパサイエンス・1994)という著作に結実した探究は、酒飲みの悪のりという多少の自嘲も交えてはいるかもしれないが、特許を取得するところまでいった様子なので、なかなか意外な彼の探究心の粘り強さ、強靭さを示している。超低出力超音波熟成器・MATUREXがいま製造されていないようだが、実に残念である。なんとかこれを手に入れることはできないかと、ネットオークションなどを探してみるが、なかなか見つからない。これを使って酒を飲むと、もう普通の酒が飲めなくなるらしいので、ちょっと不安を感じなくもないが・・・・・

『流民烈伝』を読んだ者の目から見ると、まるで彼自身が、『流民烈伝』の伝説的人物になって大奮闘しているかのごとく、この仕事に全霊を捧げているように見えて、感銘を禁じえない。