群衆のなかの孤独2010/03/28

 山とか野原の中でひとりでいるときよりも、都会の群衆のなかにいるときのほうが孤独を感じる、そのような経験がないだろうか。


 ナチュラリスト田淵行男は山への単独行について次のように述べている。


― 私にとって山の魅力は、その隔絶度ということであり、山行の意義は、原始の香り高い無傷な自然に浸ることだと言えると思う。・・・私にとって単独行は、人類の原点とめぐり合う回帰の旅であり、同時に、私の中の野生を模索する遍歴でもあった。
(『黄色いテント』より 実業之日本社)


 つまり、単独での行動は、必ずしも、疎外感とか寂寥感とかいった受動的な消極性を意味するものではなく、生の充実を求める能動的な意志に基づく積極的なものなのである。植村直巳や堀江謙一のような偉大な単独冒険者たちの心性には、田淵行男のこのことばに通じるものがおそらくあるにちがいない。


 自然というものは私たちの存在にまったく無関心である。それに対して、人間社会というものは、私たちを決して放っておいてはくれない。生まれいずるやいなや、社会に適応することを徹底的に教え込まれる。その経験のなかで、人間特有の心性が生まれる。それは他者を意識しながら行動するという心性である。つまり社会にはルールというものがあって、それに従うことによって集団の秩序が保たれる。まず挨拶すること。欠礼する者は社会的に排除されてゆく。学校であれ、会社であれ、たとえアウトローたるやくざ社会であっても、このルールはどの社会集団においても共通なのだ。



 自分の本来の望みとは無関係に、人間社会と歩みを共にするとき、心理的にあるストレスが生じているように思われる。他者に依存する気持ちと他者から解放されたいという気持ちを同時にもつ。一体感の裏に同時に孤独感が潜んでいる。


 街角の路上で、駅で、群衆のなかで、そんな自分の心の矛盾に気づかせられることがある。期待の連鎖、恐怖の連鎖、つまり群衆心理が存在し、まるで操られるようにそれに翻弄される事態に直面することに。


 昨日も、東京・原宿で「芸能人がいる」というガセ情報が通行人にあっというまに拡がり、大騒ぎになって怪我人まで出たというニュースが流れていた。


http://www.asahi.com/national/update/0326/TKY201003260411.html


 ふだんテレビでしか見たことがない芸能人に出会うという出来事が、身近に今すぐ実現するかもしれないという期待を、あっという間にふくらませ、伝染させてしまったのだろう。


 また同じ昨日、足利事件の冤罪が晴れた菅家利和さんの容疑がかけられたのは、週末だけ借家して生活していることを不審に思った近所の人の通報によるものだった。「もしかすると、あの人が」という恐怖が根拠のない疑いを呼びさますのだろう。


 一人では何も判断できず、何も解決できないくせに、根拠のない噂話や、誰かが言ったことに反応し、便乗する感性は、ときには恐ろしい社会的結果を招くことがある。