映画『アンドレイ・ルブリョフ』2010/03/21

 渋谷のイメージフォーラムで開催されていた「タルコフスキー映画祭2010」で、彼の長編2作目の監督作品『アンドレイ・ルブリョフ』を観た。

 中世ロシアのイコン画家という、まったく馴染みのない題材ということもあって、見るのをためらっていた作品だったが、思いきって観ることにした。予想どおりというか、帰宅して内容を思い出そうとすると、あまりにも理解度が低いことに愕然とした。頭巾を被った三人の修道士の人相の識別もできないうちに、話がどんどん進むし、映像に気をとられていると、重要な会話が頭に入らず、話のポイントがつかめない。字幕を読まなければならないというハンディはもちろんあるのだが、誰のセリフなのかよくわからない場面もけっこうあった。あとでチェックしてみた結果、回想シーンなどが時間の前後関係を無視して挿入されていたりするので、おそらく一度観ただけでは、きちんと内容を把握することが困難な映画ではないだろうか。映像は迫力満点なので、見終わったあとの感じは心地良いものがあったのだが。

 というわけで、この映画の虎の巻ともいうべき落合東朗氏の『タルコフスキーとルブリョフ』を読み、再度映像をyoutubeで確認してみる(ちなみにyoutubeでの『アンドレイ・ルブリョフ』は映画で見たものより若干時間が長い。この映画には上映に関する不幸な経緯があって、いくつかのバリアントがあるようだ)。



 とくに重要と思われる会話の部分を抜き出し整理してみると、映画館で観ていてよくわからなかった部分が、だいぶ理解できるようになった。

 この映画は10個に区切られて構成されている。

1  プロローグ
2  旅芸人 1400年
3  フェオファン 1405年
4  アンドレイの苦悩 1406年
5  祭 1408年春
6  最後の審判 1408年夏
7  襲来 1408年秋
8  沈黙 1412年
9  鐘 1423年
10 エピローグ

 このうち、映画館で観ていて特によくわからなかったのが、4、5、6あたりで、ルブリョフのキリスト教観(ルブリョフという画家については史実というものがほとんどないらしいので、これはタルコフスキーの想像力のなかのものだろう)、民衆観、絵画にたいする姿勢の核心部分が含まれている。


 ★『4 アンドレイの苦悩 1406年』より

 ルブリョフとフェオファンの川原での会話。





(フ) 頑固者だね君は、アンドレイ。
考えすぎであることがわからんかね、誰もが自分のことだけを考えているというのに。
(ル) わかっていますよ、フェオファン。
モスクワの女たちがタタール人に髪を与えたのです。
(フ) 生きていかねばならん者にとって、それ以外に何ができるというのかね?
拷問されるより髪をなくすほうがいいじゃないか、りっぱなことさ。
(ル) そうです。ロシアの女たちが辱めを受け不幸なのはほんとうです。私が言いたいのはそういうことではありません。
(フ) 正直に言いたまえ。民衆は無知だと言いたいのではないかね?
(ル) かれらは無知です。しかしそれが誰のせいだというのですか?
(フ) 自分の愚かしさのせいだよ、君は無知が罪悪とは思わんのかね?
(ル) 誰だって無知なのです。
(フ) わしだってそうさ。そんなわしらを神様は許してくださる。よくしてくださる。まあ、気にすることはないさ。最後の審判が来れば、わしらはろうそくみたいに燃えちまうだけさ。おぼえておくことだな。 誰もが弁明のために、自分の罪を他人のせいにするだろうよ。
(ル) フェオファン、そんな考えをもっているあなたが、みなに賛美されながら絵を描くことができるのかがふしぎです。私なら隠者になって、洞窟で暮らします。
(フ) わしは人にではなく神に仕えている。賛美なんて、今日の賛美は明日には罵りにかわるじゃろう。君やわしのことなど、すべては忘れられる。すべて空虚で灰にすぎん。もっと悪いことだって忘れ去られるだろう。人間性はもう愚かしさと低劣さに没頭し、今やそれを繰り返しているばかり。すべては永遠の円環となっていて、ただずっと繰り返しているだけなのさ。イエスがもし地上に帰ってきたとしても、やつらは彼をまた十字架にかけることだろう。
(ル) もちろん、もし悪だけが記憶に残るというなら、そのときは神を前にしても幸福ではいられないでしょう。おそらくわれわれは何か見落としているにちがいない。すべてというわけではなく、なんと言ったらいいのかよくわかりませんが。
(フ) では黙ってわしの言うことを聞きなさい。
(ル) あなたは自分ひとりだけが正しいと考えているのではないですか。
(フ) まあいい。新約聖書を思い出してみなさい。宮殿のなかでイエスは人々に教えていた。そしてあとになって、人々がなぜ集まってきたのか?イエスを殺すためだ。「十字架にかけよ」かれらは叫んだ。弟子たちは?ユダは彼を売った。ペテロは否認した。弟子たちは逃げ去った。もっとも善良だったはずの者たちなのに。
(ル) しかし、かれらは悔いた。
(フ) あとになってからではもう手遅れさ。
(ル) 悔い改めることは決して手遅れではありません。


ここで、映像はイエスらしき人物にかわり、十字架を背負って丘を登ってゆくイエスとそれにつきしたがう一行が、聖書の「ゴルゴタの丘」の場面がロシアの雪景色のなかで再現される。その映像にルブリョフの独白がナレーションのようにかぶせられる。

― もちろん、人々は悪い行いをした。
しかしいっしょにかれらを責めることはできない。
それは無理だ、そして罪深いことだ、と私は思う。
ユダはキリストを売った、彼にそうさせたのは、
民衆だ。
誰がユダを責められるか?
律法学者とパリサイ人・・・・・いかにがんばっても、かれらは目撃者を見つけられない。
「この無実な者のために誰が証言するだろう?」
あとになって、裏切り者をみつけただけだ。
(二人はすぐ見つかった、ふたりであって、ひとりではない)
ふたりだけだった。
パリサイ人は教養はあるが偽善者だ。
かれらは権力を得るため、民衆の無知を利用するために、学んでいるのだ。
われわれはもっと民衆であった人々を思い起こさねばならない。
同じ血が流れ、同じ土地に住むロシア人。
悪はどこにもある。
いつも誰かが銀30枚で君を売るだろう。
新たな不運がたえず農民にふりかかる、秋に三度のタタール人の襲来、飢饉、ペスト
それでもかれらは働いて、働いて、働きつづける、従順に十字架を背負うために。
かれは絶望しない、黙って耐え忍ぶ。
かれは全力で神に祈るだけだ。
かれの無知を神が許さぬことがあろうか?
君は自分のことがわかっている、君は疲れ落胆してる、
そして突然、君は群衆のなかに人間のまなざしを見つける、
すると、すべては聖体拝領の後のようにすっと軽くなる
そうなのか?
きみはただイエスに話しかける。
おそらくかれは神と人間を和解するために生まれ、十字架にかけられた。
イエスは神の子だ、ゆえにかれは全能だ。
そしてもしかれが十字架で死ぬならば、それは運命であり、
かれの十字架と死は神の思し召しなのだ。
憎しみを引き起こすのは、彼を十字架にかけた人々においてではなく、
彼を愛した人々においてなのだ・・・・・
その瞬間彼のそばにいたのなら・・・
なぜなら、かれらはひとりの人間としてかれを愛していたのだから。
しかしもしかれが、自らの意志で、かれらを見捨てたのなら、
かれは不正を、残酷さすら示した。
おそらくかれを十字架にかけた人々は彼を愛していた
なぜならかれらはこの聖なる計画に寄与したのだから。


(もとの川原に映像が戻って)
(フ) 自分が何を言っているかわかっているのかね?
イコン画を修復するために、君は北に追放されるだろう。
(ル) わたしは正しいのだろうか?あなただっていつも、わたしも考えることを言っています。
(フ) しかし、わしは修道士ではない、わしは自由な人間だ。


 キリスト教の教義には不案内なので、ルブリョフの幻想的な物思いにどのよう信念があるのかよくわからない。この時代の思想は、キリスト教の衣装を借りて展開されるのが常であって、この映画においてもやはり、精神性はキリスト教の知を前提に表現されているのだろうが、私にはそれを読み解くキーのようなものがない。ただ、ルブリョフの抱いている方向性が、民衆の苦悩とともにあろうとする意志のようなものであることは理解できる。それがフェアフォンとの決定的な違いとなっている。フェアフォンは自ら言うとおり、個人主義的な知識人であって、神に仕え、世のなかの不正に激しい憎悪はもっているものの、無知なる民衆の側に立つことはないのである。



 ★『5 祭 1408年春』より

 異教徒の祭を見ていたルブリョフが、マルファという女性がいる小屋のなかで捕らえれて、告げ口されぬように、柱に縛られて身動きできぬようにされてしまう。

 異教徒の女マルファとルブリョフの会話。


(マ)なぜあなたは頭を下にしたいの?気分がもっと悪くなるのに。
なぜあなたは天の火でわたしたちを脅すの?
   (ルブリョフが「最後の審判」を口にしたことへの反感)
(ル)裸になって君たちがしようとしていることは罪なのだ。
(マ)何の罪ですって?今夜は愛しあうための夜なの。愛しあうのは罪なの?
(ル)こんなふうに人を縛り上げるのは愛なのか?
(マ)あなたが他の修道士をよぶかもしれないからよ。
あなたの忠実さをわたしたちが受け入れることを強制しようとする人たちよ。
あなたは恐怖の中で生きることが容易なことだと思っているの?
(ル)君は恐怖のなかで生きている、なぜなら君が知っているのは愛ではなくて獣欲なのだ。魂のない肉欲、しかし愛は兄弟愛のようであるべきだ。
(マ)すべての愛は同じではないの?ただの愛なのよ。
(マルファはルブリョフに近づきキスをする、ルブリョフ絶句。)

 表面上は同意しないものの、マルファのこのことばは、ルブリョフの内奥に重く沈んでゆく。次章の『最後の審判 1408年夏』で、ルブリョフが最後の審判の絵を描けなくなる要因になっていくように思われる。彼は同僚のダニールにそれを説明することができず苛立つ。

 この異教徒たちの祭の光景は不思議な美しさにあふれている。キリスト教化に抵抗する土着の民衆の姿を目撃することでルブリョフの民衆観に影響を与え、しいては有名なウスペンスキー大聖堂のフレスコ壁画にみられる『最後の審判』の不思議な明るさにつながる機縁となっていることが暗示されているようだ。ミケランジェロが描いたシスティーナ礼拝堂のあの壮大な「最後の審判」の天井画にくらべて、この壁画のなんとおおらかなことだろう。


 ★『最後の審判 1408年夏』

 依頼された「最後の審判」をどのように描くかで思い悩むルブリョフ。依頼主の大公に睨まれて、森のなかで眼を抉られる職人たちの凄惨なエピソードを挟んで、ウスペンスキー大聖堂で、怒りにまかせて白い壁を黒く汚しながら、言う。





(ル)セルゲイ。
(セ)何でしょう?
(ル)聖書を読んでくれないか。
(セ)どこから読みますか?
(ル)いいよ、どこからでも。
(セ)「わたしがキリストにならう者であるように、あなたがたもわたしにならう者になりなさい。あなたがたが、何かにつけわたしを覚えていて、あなたがたに伝えたとおりに言伝えを守っているので、わたしは満足におもう。しかし、あなたがたに知っていてもらいたい。すべての男のかしらはキリストであり、女のかしらは男であり、キリストのかしらは神である。祈をしたり預言をしたりする時、かしらに物をかぶる男は、そのかしらをはずかしめる者である。祈をしたり預言をする時、かしらにおおいをかけない女はそのかしらをはずかしめる者である。それは、髪をそったのとまったく同じだからである。もし女がおおいをかけないなら、髪を切ってしまうがよい。髪を切ったりそったりするのが、女にとって恥ずべきことであるなら、おおいをかけるべきである。男は、神のかたちであり栄光であるから、かしらに物をかぶるべきではない。女はまた男の栄光である。なぜなら、男が女から出たのではなく、女が男から出たのだからである。また、男は女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのである。それだから、女は、かしらに権威のしるしをかぶるべきである。それは天使たちのためでもある。ただ、主にあっては、男なしには女はないし、女なしには男はない。・・・・・」
(コリント人への第一の手紙第11章より)

 藁束を手にした裸足の白痴のように見える娘が、雨宿りのためか堂内に入ってくる。朗読している少年を熱心に眺め、それから黒く汚れた壁を見て、娘は泣き出す。ルブリョフは驚いて彼女を見るが、朗読を続けさせる。

 キリール、ダニール、ルブリョフの三人が雨の野道を歩いてきて、木の下で雨宿りしている映像が出る(ルブリョフの記憶の映像なのだろう)。

 急に何か思いついて、ルブリョフがダニールに語りかける。

(ル)ダニール、聞いてくれ。 祝祭、祝祭なのだ。ダニール、君は言っていたんだ。かれらは罪人ではない、彼女は罪人ではない、たとえおおいを頭にかぶっていなくても、彼女は罪人ではない。

突破口を見つけた喜びで、恥ずかしそうに笑いながら小走りで外へ出てゆくルブリョフ。
唖然として見つめる、ダニールたち。
追おうとする弟子を止めて、ダニールが言う。

(ダ)ほおっておくんだ。神の召使に悔い改めをさせるのだ。

白痴の娘が立ち上がり不思議そうな顔をして戸口に近づき、半開きの扉をいっぱいに開ける。雷雨が鳴り、希望の予感がよぎる。

コリント人への第一の手紙の内容、白痴の娘の涙、雨の日の雨宿りの記憶などさまざまな要素で、ルブリョフが「最後の審判」を恐怖ではなく、祝祭として描くことを思いついたことはわかるが、なぜ、どのような連想によってそうなるのか、残念ながらいまいちわからない。まあ、すべてがりくつじゃない。霊感というものは、そんなものか。



      ウスペンスキー大聖堂のフレスコ壁画『最後の審判』


 この『アンドレイ・ルブリョフ』という作品のなかには、絵画の先輩フェオファン、異教徒の女マルファ、白痴の娘(シナリオでは、ユロージヴァヤ(佯狂もしくは聖愚者と訳されるらしい)と呼ばれているとのことである。ユロージヴィ〔ユロージヴァヤはその女性形〕とは、修行のために狂人を装い孤独な生活を送る者を指す語で、ロシアではこうした人びとに特別の敬意と愛情を示したと、落合東朗氏の本にある。本編の最後にタタール人の衣装で馬を引きながら歩く婦人がルブリョフたちの方を見ている場面があって、この女性がかつての白痴の娘であり、彼女の微笑が、ルブリョフの画家としての再生と未来への明るい希望を暗示しているように思われた。)、鐘をつくる少年ポリースカなど、個性的で力強い民衆が登場している。そのそれぞれがルブリョフに霊感と勇気を与えつづけ、イコン画や壁画の完成に邁進させた原動力であることを示すことが、タルコフスキーの意図なのだろう。