映画 『ストーカー』2010/01/31

 早稲田松竹で観たのは、アンドレイ・タルコフスキー監督の『ストーカー』だった。

 ストーリーが完結するとそこで終わってしまう映画がある。ハッピーエンドによって頭から消えてしまう映画がある。しかし、観終わった後から始まる映画というものもある。制作にまつわるさまざまな逸話や、監督の特異な思想とか美意識だけで、映画作品の優劣が判断されるわけではないし、観ている間に、映像が感動を与えることができれば、二度と思い出すことなく忘れ去られたとしても、それはある意味すばらしい。

 『ストーカー』を観るのは初めてではなかったし、実はDVDも持っている。それでも、もう一度映画館の暗闇で観る気持ちになったのは、私のなかでこの作品が完結せず、謎のような存在のまま残り続けているからにちがいない。映画が終わったところで、始まる何かがある。

 とはいえ、謎が解けるなどと考えているわけではもちろんない。この謎はストーリーから来るものではないような気がする。原作はストルガツキー兄弟のSF小説(原題は『路傍のピクニック』)で、原作者自身が脚本を担当しているし、ゾーンの存在、ストーカー(ハヤカワ文庫版では「密猟者」という訳を、この映画をめぐる大江健三郎の短編では「案内人」という訳がなされている、もともとロシア語にはない外来語らしい)の苦悩という、原作の大きな枠組みは保たれている。

 私たちがこの作品から受ける印象の大部分は、映像から来るものだ。映画を観る者を支配している気分は、映像の圧倒的な力によるものだ。暗い室内で懊悩する人物、朝霧のなかに浮かびあがる駅と列車、廃墟のなかの水たまり、跳ね回る炎、・・・・・。謎は、ことばの手前にあって、記憶のなかで認識が始まる、あの経験に関係しているように思われる。このような経験は根源的ではあるが、非常に個人的なので、他者と共有するのがきわめて難しいものだが。



 すでに多くの人によって言い尽くされているが、この監督の映像づくりの特徴は、極端な長まわしによる、じっと対象を凝視しているように計算された、焼き尽くすような視点にある。したがってストーリーを追うことだけに馴れている者にとっては奇異なほど冗長に感じるだろう。ことばが解釈する以前の、鮮烈で生の経験に属しているこの視点は、何かを目撃する者の経験に実際には近いものだ。この映画という表現の固有の強みを、タルコフスキーという監督は最大限に駆使する。映像が記憶となり、経験となり、やがて認識となる。



 願望を叶えるとされるゾーンのなかにある部屋は、寓話的な命題を提示しているかもしれない。ストーカーの視点とはしかし何なのだろう?願望を叶える部屋などという存在を信じられず、むしろ解体しようとする作家と科学者の視点と対立し、軽蔑している視点である。残念ながら、それを理解する、おそらく宗教的な感性を私はまだ持っていない。