映画館で映画を観る2010/01/28

 早稲田通りに早稲田松竹という映画館がある。ずっと遠い郊外の住宅地に住むようになってから、この辺りを歩くこともまれになり、この映画館への出入りもずっと途絶えたままだった。映画もビデオを借りてみることが普通になってしまっている状況で、このような名画座が残っていることじたい奇蹟のように感じられる。この町に来る時は、古書店めぐりと「あらえびす」という名曲喫茶(こちらは建物だけが廃墟のような佇まいでまだ残っている)のコーヒーとこの映画館が一つのセットのようになっていた時期もあった。先日、ここを通りかかった際、映画館で映画を観るという快楽の記憶が蘇えり、映画を楽しむことになった。

 昔は少しにぎやか町には名画座がひとつくらいあって、映画の巨匠たちの名作を見ることに没入して時間を過ごすことができた。目覚めても夢の気分が抜けず、もう一度夢の続きを見るために再び眠ろうとするように、情報誌でどの映画館でどんな映画を上映しているかを調べ、休日の計画をたてたものだ。新宿、池袋、三鷹、自由が丘、・・・・・。


 武満徹といえば、もちろん高名な現代音楽の作曲家であるが、『夢の引用』という映画についてのすぐれた本がある。これを読むと、彼が音楽だけではなく映像の分野においても非常に鋭い感性をもっていた人であることがわかるのだが、その本のなかで、旅先で入った地方都市の映画館にふれて、彼はこんなことを書いている。

 「こういう空間で洋画を観ると変に気分が昂揚してくる。これは東京では味わえない貴重な感覚である。別に昔に戻ったような気がするのでもないが、映画に映しだされる風物のひとつひとつが、子供の時見たように物珍しく、新鮮に感じられる。東京のように設備が行き届いた映画館でより、陽光が注ぐ空間から不意に物陰へまぎれこんだような小さな暗闇のなかでは、もっと容易に、猶素直に眼を凝らすことが可能なのだ。映画館では、ひとは、めいめい思い思いの映画を観ている」(p72)

 この本のなかで武満は、夢と映画を関連付けようと努めている。そういえば、夢のなかで、幼い頃通った映画館のイメージが出てくることがよくある。夢というのは何かを観るという経験そのものが脳内で再生されているような気がすることがあるが、それは現実の世界で何かを観察しているときの「観る」ではなくて、映画館で映画を観ているときの「観る」に近い。書物や映画といった非現実を現前させる仕掛によって、意識が時間空間を超えて拡大されてゆき、私たちの精神に広汎な疑似体験が組み込まれてゆく。