イロニー的日常 ― 2010/01/21
旅番組のレポーターが田舎の景色を見て、ひと言。
「すばらしいですねえ、自然がまだこんなに残ってるなんて。」
そこで生活することに日頃不便を感じている地元の人が、これを聞いて感じるほろ苦いもの、それがイロニーである。
レポーターの意図は住民を不快にさせることではないだろう。しかし、もし意識的にこのような効果をねらっての発言ならば、それを聞いた人の表情を伺いながら、イロニーが通じているかどうかを観察しているのである。このようなことば使いを自覚的に行なう人をイロニストと呼ぶ。
この場合、イロニストは田舎を誉めているのではなく、実はけなしていることになる。
レトリックにおける「イロニー」とは、「ことばのあらわしていることとは反対の意味」に理解される発言のことだ。
(詳しい議論がお望みなら、佐藤信夫の著作『レトリック認識』―第7章反語などを参照)
最近始まった、NHK大河ドラマ『龍馬伝』を見ていたら、こんな場面があった。岩崎弥太郎(三菱の創業者として知られる人物)に、竜馬を取材するという記者が竜馬について訊ねると、次のように答えるのだ。
「私は竜馬が大きらいじゃった」
これは、そのことばとはうらはらに、この男の竜馬に対する強い思い入れを語っており、定義の上からは、これもイロニーといえるのかもしれない。
なぜ、わざわざこんなややこしい言い方をするのかと、素直な方なら訝るかもしれない。しかし、おそらく「イロニー」によってしか表現できない何かの事情があるにちがいない。
推測してみるなら、最初の例では、田舎を直接けなすことが難しいので、逆の言い方で摩擦を回避し、竜馬伝の弥太郎の場合は、竜馬に対する思い入れの強さを表現するために、あえてこのような言い方が必要なのだろう。
このように、イロニーはさまざまな日常的表現のなかにはいりこんでいて、私たちはそのことに、自然に気づくこともあれば、まったく気づかなかったりする。
「すばらしいですねえ、自然がまだこんなに残ってるなんて。」
そこで生活することに日頃不便を感じている地元の人が、これを聞いて感じるほろ苦いもの、それがイロニーである。
レポーターの意図は住民を不快にさせることではないだろう。しかし、もし意識的にこのような効果をねらっての発言ならば、それを聞いた人の表情を伺いながら、イロニーが通じているかどうかを観察しているのである。このようなことば使いを自覚的に行なう人をイロニストと呼ぶ。
この場合、イロニストは田舎を誉めているのではなく、実はけなしていることになる。
レトリックにおける「イロニー」とは、「ことばのあらわしていることとは反対の意味」に理解される発言のことだ。
(詳しい議論がお望みなら、佐藤信夫の著作『レトリック認識』―第7章反語などを参照)
最近始まった、NHK大河ドラマ『龍馬伝』を見ていたら、こんな場面があった。岩崎弥太郎(三菱の創業者として知られる人物)に、竜馬を取材するという記者が竜馬について訊ねると、次のように答えるのだ。
「私は竜馬が大きらいじゃった」
これは、そのことばとはうらはらに、この男の竜馬に対する強い思い入れを語っており、定義の上からは、これもイロニーといえるのかもしれない。
なぜ、わざわざこんなややこしい言い方をするのかと、素直な方なら訝るかもしれない。しかし、おそらく「イロニー」によってしか表現できない何かの事情があるにちがいない。
推測してみるなら、最初の例では、田舎を直接けなすことが難しいので、逆の言い方で摩擦を回避し、竜馬伝の弥太郎の場合は、竜馬に対する思い入れの強さを表現するために、あえてこのような言い方が必要なのだろう。
このように、イロニーはさまざまな日常的表現のなかにはいりこんでいて、私たちはそのことに、自然に気づくこともあれば、まったく気づかなかったりする。
コメント
トラックバック
このエントリのトラックバックURL: http://foonenbo.asablo.jp/blog/2010/01/21/4825623/tb
※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。
コメントをどうぞ
※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。
※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。